私たちは日頃、多くの想いを抱え忙しく毎日を過ごしています。
~しなければならない
~であるべきだ
~と思われたい
~したい
これまで歩んで来た長い人生の中で、沢山の経験を通し培って来た自分。
その中から生じる様々な想い。
そして成し遂げたい自己実現。
しかしそれは本当に、本来の自分自身の姿なのでしょうか。
人は心に浮かぶその様な想いに従い行動する事で、満たされることを信じ、高い目標を掲げたり、それに向かう事で安心感を得たりしています。
上手くいけば歓喜して満たされ、
上手くいかなければ落胆して心乱され、
時にはそんな自分が辛くなり、享楽や快楽に逃げてしまう様な事もあります。
自分を正当化するために、無理な理由付けや意味付けをしてみたり、
なりたい自分になるために大きくみせたり、無理な言動をしてみたり、
自分を守るために思いがけず人を批判したり、傷付けてしまったり・・
その様な生活の中、心は安定する事なく、
ごまかしごまかし強い自分の心だけで乗り切って今ここまでやって来た。
そんな人も多いのだと思います。
果たして本当の自分はどこにあるのか。
瞑想はゆったりと座り、心を止め、自分自身と向き合う事により、自分という存在を客観的に観る心を養っていきます。
何故、自分はこうなりたいのか
何故、自分はそうしなければならないのか
何故、自分はそう思われたいのか
その様な想いに目を向ける事により、徐々に自分自身への理解を深め、
自分の行動を支配していた「感情」、また自分の感情を支配していた根底にある「意識」を知る様になっていきます。
その事により自分は、
何に、追われていたのか
何に、囚われていたのか
何を、求めていたのか
そういった根源的な自分の意識を知り、自分自身をまた深く理解していく事によって、これまではそれこそが自分自身であるとして疑わなかった「実在しない自分」
に翻弄され振り回されていたこと、
また様々な関わり合いの中から全体という大きな自分を見出し、これまで断片的な領域で認識していた小さな自分という存在に気付く様になっていきます。
そしてこれまで不確かだった自分という存在が、明瞭な存在となった時、自分の命は今此処という瞬間にハッキリと輝き始め、何ものにも左右されない安定の中に深く安らぎ、自分自身の人生を歩める様になるのです。